エコール・ド・パリと100年後の今 絵画販売・絵画買取で実績が豊富な東京・銀座の画廊です。現代アート・日本画・洋画・版画・彫刻・陶芸・浮世絵・茶道具・西洋アンティークなど多彩なジャンルの美術品を豊富に取扱いしています。 

エコール・ド・パリと100年後の今

 昨年、美術評論家の村上哲さんの講演をお聞きする機会があったのですが(美術ヨモヤマ話「日本とゴッホ」)、今年も「アートは国境を越えて」と題する、1920年代に隆盛した「エコール・ド・パリ」の動向から100年後の今に至るまで、藤田嗣治を中心に、この時代についてのお話をお聞きする機会がありました。  20世紀前半、世界各地からフランスにやってきてパリを舞台に    活躍した一群の芸術家たちを「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼びます。日本からは藤田嗣治、スペイン からはピカソなど、そのほとんどは「異邦人(エトランジェ)」でした。また、多くの芸術家はユダヤ系の出自だったそうです。

 藤田がフランスへ渡ったのは1913年なのですが、1914年には第一次世界大戦が勃発します。戦時下で日本からの送金も途絶え、苦しい生活を送っていたようですが、この年藤田はピカソを訪ねています。このとき、藤田の年齢はピカソの5歳下だったそうで、藤田はキュビスムなどの新しい芸術運動に傾倒していきます。アンリ・ルソーの絵との出会い、最晩年のルノワールとの面会、キスリングやザッキン、年齢の近かったパスキン(パスキンは1930年に命を絶ってしまったそうです)との熱い交流を通して、藤田は自らの立ち位置とアイデンティティーを見出していったそうです。

 藤田の芸術に女性は欠かせない画題ですが、フランスに渡って、まず一緒に暮らした女性が、フェルナンド・バレエという美術モデルであり画家のフランス人女性でした。藤田の1920年代の作品は、フェルナンド・バレエを描いています。この時代に、日本の面相筆を使い、油彩画にシッカロールをまぶし、墨で線を描く。そんな技法を発見したそうです。

 藤田は、1923年に《五人の裸婦》を描きましたが、明らかにピカソの《アヴィニョンの娘たち》を意識して描いています。このピカソの作品は「裸婦たちによる群像」というルネッサンスの有名で伝統的な主題ですが、20世紀のモダン・アートの地平を切り開いた出発点として位置づけられる作品です。


藤田嗣治《五人の裸婦》


ピカソ《アヴィニョンの娘たち》

 ピカソは、ヨーロッパの伝統的な造形を継承しつつ、右側の裸婦の顔の造形にはアフリカやオセアニアの民族彫刻からの影響を受けるなど、異文化も取り入れた絵画を作り出しました。
他方藤田は、ギリシャやローマなどの彫刻のポーズを用いて、日本の墨を使って、東西両方の美を意識して描いていました。
 
 まさに「アートは国境を越えて」いたんですね。

 でもフランスでも1918年の第一次大戦後に移民政策を行い、当時は異邦人に排他的になっていた時代でもあったそうですが、ピカソ、シャガール、モディリアーニ、藤田、キスリング、ザツキンらの活躍ともに、1925年頃から、エコール・ド・パリでも異国からの芸術家にだんだんと肯定的になっていったそうです。

 さて、時は少し流れて、1931年から人生をともにしたマドレーヌ・ルクーが1936年29歳で不慮の死をとげてしまいます。藤田とマドレーヌは2年間南米をともに旅し、1936年まで日本でアトリエを建てて暮らしていました。藤田は、マドレーヌが亡くなった後も、マドレーヌをたくさん描きました。

 エコール・ド・パリの芸術家の多くは、故郷を離れて異国の地で暮らしていました。今から100年前の彼らは、自分の存在とは何か、芸術家としてのルーツやアイデンティティーを思い、華やかであり、悲哀にも満ちた時代を築きました。例えば、キスリングは、ユダヤ人でありながらフランス人として生き、第二次大戦時には反ナチス運動を行ったためヒトラーから死刑宣告を受け、フランスから逃れてアメリカに滞在しました。

 また1939年に第二次世界大戦が起こります。当時藤田はフランスにいたのですが、1940年には戦況が悪化したことから、日本に帰国することになります。

 そして藤田は第二次世界大戦中に戦争画を描いたことにより、1945年に戦争が終わると、美術界の戦犯として名前が上がることになります。この容疑は、後に晴れるのですが、藤田はフランスへ戻ることも決意するも、ビザの取得に難航し、1949年にアメリカへ旅立ちました。藤田はアメリカ滞在中に旺盛に絵画制作に取り組み、代表作になる《カフェ》もニューヨークでの個展で披露されました。この作品では黒いドレスを着た女性がカフェで物思いに耽っている姿が描かれています。この女性には、亡き妻・マドレーヌへの思いが込められているそうです。この絵の背景の建物の看板に「ラ・プティト・マドレーヌ」というフランス語の文字が見られるのもそのためだそうです。この《カフェ》を描いたのち、藤田は、亡きマドレーヌの望郷の念を叶えるかのように、眠る彼女の姿をパリの風景のなかにたびたび描き続けました。


藤田嗣治《カフェ》

 そして1955年にはフランス国籍を取得し、日本国籍を失うこととなります。
藤田は1959年にカトリックの洗礼を受けていますが、藤田の洗礼名は「レオナール・フジタ」です。レオナルド・ダ・ヴィンチが好きでこの名前をつけたそうですよ。

 1920年代に隆盛した「エコール・ド・パリ」。第一次世界大戦や第二次世界大戦が起こり、ユダヤ人に対する差別や虐殺のあった時代です。

 それから100年が経ったわけですが、現在もウクライナやパレスチナでは戦争が起こっています。

 100年前のエコール・ド・パリにおける国境を越えたアートへの眼差しとその歴史が、激動する今の時代の、民族と宗教を越える道しるべのひとつとなることを願ってやみません。


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