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世界のムナカタってどうやってメイキングされたの?

世界のムナカタってどうやってメイキングされたの?

 東京国立近代美術館で開催中の「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」(2023年10月6日~12月3日)を見てきました。

 私は銀座で画廊をはじめたとき、ある方が棟方志功の作品を沢山持っていて、この方に棟方作品を分けてもらい、何点か扱ううちに、棟方作品の黒と白のモノクロ世界に魅了され、それから本当に多くの棟方作品を扱って来ました。

棟方志功 鍵板 大首

 それだけに特別な思い入れがあるのですが、この展覧会は、「棟方の生誕120年を記念し、棟方と富⼭、青森、東京の各地域の関わりを軸に、板画(はんが)、倭画(やまとが)、油画(あぶらが)といった様々な領域を横断しながら、本の装幀や挿絵、包装紙などのデザイン、映画・テレビ・ラジオ出演にいたるまで、時代特有の「メディア」を縦横無尽に駆け抜けた棟方の多岐にわたる活動を紹介し、棟方志功とはいかなる芸術家であったのかを再考します。掌サイズの絵葉書から、公共の建築空間の⼤壁画まで、「板画」の可能性を広げ、様々なメディアを通じて「世界のムナカタ」が社会現象になるまでの道程─「メイキング・オブ・ムナカタ」を辿る⼤回顧展です。」と言うだけあって、すごく見応えがありました。

棟方志功

 棟方は極度の近視で、顔を板にくっつけながら、凄い勢いで下絵を描いていくビデオも展示されていたのですが、この展覧会の面白いのは、棟方の版画の作り方(メイキング)ではなく、「世界のムナカタ」の作り方(メイキング)に視点を置いていたことです。

 もちろん棟方志功には、天賦の才能があるわけですが(天才って本当にいるんですね)、それだけでは「世界のムナカタ」は生まれません。皆して作り上げていく(きっかけを与える)んです。

まず青森の友人です。

 棟方は、1903年(明治39年)、青森県で鍛冶屋の息子として生まれ、実家の鍛冶屋が廃業した後は、裁判所控所の給仕として働きます。絵を描くことが大好きだったようで、閑さえあれば描いていたようですが、ある友人から雑誌「白樺」で紹介されていたゴッホの「向日葵」(ひまわり)を見せられて大きな衝撃を受け、洋画家になることを決意し、1924年(大正13年)、21歳で、油絵画家をめざして、青森から単身上京します。「わだばゴッホになる」という棟方の言葉は有名ですよね。

棟方志功 ひまわり

ゴッホ ひまわり

 でも東京芸大で学んだんじゃないんですよ。それどころか帝展には落選続きで、看板描きや納豆売りまでしていたようです。

 次は、川上澄生の版画作品「初夏の風」との出会いで、深い感銘を受けた棟方は版画への関心を持ち、1931年(昭和6年)、版画作家になることを決意します。

この頃の棟方の作品は、「大和し美し(やまとし うるわし)」1936年(昭和11年)が有名です。

棟方志功

 日本神話をテーマに、絵と文字が入り乱れるような画面の作品です。サイズが規定よりも超過しすぎて国画展に陳列拒否になりかけたところを、たまたま通りかかった、工芸部門の審査をしていた柳宗悦(やなぎ むねよし)らに見いだされて、「全図展示」となりました。
 この柳宗悦は、美術評論家、宗教哲学者、思想家で、近代美術に関心を寄せ白樺派にも参加し、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動(「民藝」とは「民衆的工藝」の略語です)も始めた人です。
それにしても、ほんの一瞬で作品を見抜く柳宗悦の眼力は素晴らしいですね。一瞬が勝負の場面が多い画商のそれと通じるところがあるかと思います。

 この柳との出会いが「世界のムナカタ」を作るうえで、極めて大きい影響を与えました。柳は「落書きでもしたような」文字に惹きつけられ、日本民藝館の収蔵品として買い上げを即決したそうです。
地方文化の問題をテーマとする民藝運動が、「東京の青森人」である棟方を見いだしたという側面もあっただろうと言われています。

 民藝運動の同人には、陶芸家の河井寛次郎や仏教に造詣の深い水谷良一というエリート官僚などがいて、彼らと行動をともにすることによって、棟方は宗教人物像がその後の主なモチーフとなり、素材や技法、主題や表具にいたるまで、棟方の作品には民藝的な要素が織り込まれていくことになりました。

 中国のことわざに、「千里(せんり)の馬(うま)は常(つね)に有(あ)れども伯楽(はくらく)は常(つね)には有(あ)らず」というのがあります。伯楽は、天上で馬の世話をする役目の人のことですが、いかに才能のある者も、それを認めてくれる人がいなければ、力を発揮できないという意味です。

 棟方という千里の馬は、運良く、柳ら民藝運動の名伯楽と巡り会えたんですね。

棟方志功

「世界のムナカタ」のメイキングに決定的だったのは、1956年(昭和31年)のヴェネチア・ビエンナーレでの日本館での棟方の屏風6点の展示です。

「メイキング・オブ・ムナカタ」の展覧会には、このビエンナーレの会場写真も展示されていたのですが、天上の梁からか何本ものワイヤーで棟方の屏風が表裏一体となって宙づりにされています。展示の仕方には、相当な工夫がなされたようです。作品をどう見せるかが重要なことがよくわかります。

 この時展示された作品の一つが、「二菩薩釈迦十大弟子」です。

棟方志功
棟方志功
棟方志功
棟方志功

 国際版画大賞を受賞したことで有名な作品です。

 当時の関係者は、「かねてから日本は版画の国、浮世絵の国として想像している多くの外国人は、ここに日本の実力を発見したというという形だった。棟方芸術の性質の根底は、日本の古い芸術的伝統の上に新しい形式感を盛り上げている点である。」と述べています。外国人は、「棟方志功の版画の大作に至って無条件的賞賛となった」そうです。

 こうして「世界のムナカタ」がメイキングされていったんですね。

 私は、棟方作品の世界に魅了され、鍵の柵「顔」、基督(きりすと)の柵、善知鳥(うとう)板画の「夜訪の柵」、「運命板画の柵」、「鐘渓頌(しょうけいしょう)」など多くの作品を扱い、棟方の版画の面白さを覚えていった記憶があります。

 実はこれまでに、全て揃った「二菩薩釈迦十大弟子」画廊で扱わせていただいたことがあり、美術館で作品を目の前にした時には、ひときわ感慨深い思いでした。この他にも、私と同じように棟方志功に魅せられた多くのお客様方に作品を納めさせていただけたことは、画商冥利に尽きる思いです。棟方志功は私にとって、まさに、画廊の大黒柱である作家の一人です。棟方志功を知ったことで、画商としての礎を築くことができました。

 展覧会では、普段見ることができない大作の数々を見ることができました。青森県庁の「花矢の柵」も凄かったですし、晩年に近いところの作品も鬼気迫る迫力がありました。

 棟方志功は1960年ごろには左目が完全に失明していて、右目だけで制作をしていたそうです。そんなになってまで作品を作れることに本当に驚きとともに感動を覚えます。最晩年に近い「捨身飼虎の柵」は目の見えない中で、よくこんな凄い版画を彫れたものだと圧倒されました。

 棟方志功は、器用なタイプではなかったかもしれませんが、まっすぐな人柄と、まるで神がかりにでもなった様に版木を彫るエネルギッシュさに、私も含め世界中の人々が魅了されていったのです。棟方志功は、今も「世界のムナカタ」であり、日本が世界に誇る偉大な芸術家なのです。

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